はじめに
【注意】このページは書きかけです。既に記述した部分も随時加筆修正を行っています。
このページは右に挙げた参考図書を元に、主に川崎区の歴史を解説しています。大師に興味を持って下さる方はもちろん、地元の方にも新たな大師の魅力をお伝えしたくてこのページを作成しております。
記述は補足的なものにとどめ、なるべく既存のコンテンツを生かすようにし、既存の情報のインデックス的なページを目指しています。
(記 2011年3月)
文中の注釈(※印)の項目は右サイドの補足説明にリンクしています。リンク先に移動した後元の箇所に戻るには、ブラウザの戻るボタンを押して下さい。
川崎の歴史年表は、多摩川の変遷を視点とする『京浜河川事務所−多摩川の歴史年表』が分かりやすいので、ご一読をお薦めします。
(サイトTOP:http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/tama/index.htm)
川崎のなりたち −古代〜戦国時代−
地形的な特徴
川崎市は面積144.35平方キロメートル(川崎区は40.35平方キロメートル/2009年3月末時点)で、多摩川の右岸に沿って北西の丘陵部から南東の臨海部へ細長く伸びています。標高70〜100mの多摩丘陵が市の北西部に広がり、市のほぼ中央部に当たる宮前区、高津区、中原区は主に標高30〜40mの下末吉台地(しもすえよしだいち)と多摩川流域の低地からなり、南東部の幸区と川崎区は多摩川と鶴見川が形成した沖積低地(※1)からなっています。
縄文時代・弥生時代・古墳時代
今から5000〜7000年前頃、気候の温暖化に伴って海面が現在より数メートル上昇(縄文海進)し、海岸線が溝の口付近まで入り込み、川崎が現在のような地形に近づいたのは縄文時代後期から晩期と言われています。〔縄文時代の川崎区は海深5、6mの海底で、古墳時代から古多摩川の運んだ土砂と東京湾の海流が運んだ砂が堆積して、砂州や浮洲(砂州が広く堆積して固まった小島)が見られるようになったと推測されています。〕
川崎の貝塚としては、多摩丘陵に属する子母口(しぼぐち)貝塚、加瀬山貝塚などが有名です。川崎区の小土呂(ことろ)、久根崎、渡田、小田、大島に見られる貝塚はこの時代のものでなく、奈良期前後のものと思われ、その時代、漁労(ぎょろう)を生業とした集落が存在したことをうかがわせます。
採集・狩猟社会から稲作農耕中心の弥生時代に入ると、川崎北部には規模の大きな集落が見られるようになります。この時代に続く古墳時代初期の4世紀末に築造された市内唯一の前方後円墳である白山古墳(幸区北加瀬)からは三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)(※2)が出土しています。銅鏡は地方の強力な豪族に対して大和朝廷から下賜されたもので、既に関東一帯に大和朝廷の支配が及んでいたことを分かります。
奈良期(720年)に編纂された『日本書紀』によると、5世紀の頃、現在の川崎を含む多摩川の下流一帯に胸刺(ムナサシ)というクニがありましたが、現在のさいたま市にあった牙邪之(ムサシ)との戦いに破れ、ムサシ(武蔵)の支配下に置かれました。また、安閑(あんかん)元年(534年)に大和朝廷に武蔵国の橘花(たちばな)、多氷(たび)、倉巣(くらす)、横渟(よこぬ)を屯倉(みやけ)(※3)として差し出したという記述もあり、橘花は後に橘樹郡(たちばなのこおり)(※4)となりました。現在の川崎は橘樹郡に含まれており、そのため、昭和の初め頃まで川崎市と横浜市の一部は神奈川県橘樹郡と呼ばれていました。
平安時代
律令制が施行された奈良時代から平安時代中期になって、現在の川崎区は、砂子(いさご)、堀之内、久根崎(くねざき)、中島、大島、貝塚、渡田(わたりだ)、小田などの浮洲郡の形成がさらに進みました。
平安時代後期になると律令体制(※5)が崩れ、墾田の私有化が進んで市域にも加瀬庄、丸子(まりこ)庄、小山田庄、稲毛庄、河崎庄(現在の川崎区)などの荘園(庄園)が成立しました。河崎庄を治めていたのは平氏の子孫である秩父十郎武綱(たけつな)の子、基家(もといえ)で、河崎冠者(かんじゃ、かじゃ)と呼ばれました。
【川崎大師のはじまり】
厄除けで全国的に有名な川崎大師(正式名称:真言宗智山派・大本山金剛山金乗院平間寺)が開山(かいさん)したのもこの頃で、縁起(えんぎ)によれば、無罪の罪で尾張国を追われた平間兼乗(ひらまかねのり)が夢枕に立った高僧のお告げで海から弘法大師像を引き上げ祀ったのが始まりで、大治(だいじ)3年(1128年)に高野山の尊賢上人の助力で寺を建立しました。(川崎大師公式サイト)
サイト管理人は明治生まれの祖父母より、「漁師の網に弘法大師像が引っかかって引き上げられた」のが川崎大師の始まりと聞かされていましたが、前述の縁起の他に、『真言宗であった下平間村の称名寺が一向宗に改宗し、大師像を多摩川へ流したところ、それが下流の漁師の網にかかり、寺を建立して安置した。寺は平間村ににちなんで平間寺と呼ばれた。」という説もあります。
鎌倉時代
平氏に代わって源氏が台頭してくると、武蔵国の武士団も源氏に接近しました。当時、武蔵国には七つの大きな武士団があったと言われています。源頼朝(1147-1149が平氏を滅ぼして鎌倉幕府を開くのにも、こうした強力な武士団を従えたからです。豪族は所領や所職を安堵(あんど=保護してもらうこと)や新たに所領を与えられたりという御恩(ごおん)と引き替えに軍事的負担などを追う(=奉公/ほうこう)という形で、将軍と地方の豪族との間に土地を仲介とした主従関係が生まれました。
「川崎」の地名は弘長(こうちょう)3年(1263年)、「武州河崎庄内勝福寺」として当時庄内にあった勝福寺の鐘銘に「河崎」(河嵜とも)の名で登場します。梵鐘の銘文から当時佐々木 泰綱(ささき やすつな/鎌倉時代中期の武将・鎌倉幕府の御家人)が河崎庄の庄司(または荘司/しょうじ)だったことが分かります。
執権北条泰時(ほうじょうやすとき/在職:1224-1242)の時代、川崎の沿岸部の干拓が進められました。この時開かれた地域が今の下平間、鹿島田、古川、矢向、尻手あたりと言われています。
戦国時代
戦国時代になると、北条早雲が小田原城を攻略して相模地方を治め、大永(たいえい)4年(1524年)にはその子氏綱が江戸城を手中にし、市域は後北条氏(※6)の勢力下に入りました。後北条氏は代々検地を実施し、農村支配を強めていきました。永禄2年(1559年)に北条氏康が作成した『小田原衆所領役帳』(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)は、家臣名と知行貫高(※7)、郷村名を書いたもので、川崎区域では川崎、六郷、大師河原、小田村の郷村名を見ることができます。これには管轄していた城名も書かれており、多摩川を境に江戸城と小田原城の支城である小机城(現在の横浜市港北区小机町)の管轄下にあったと見られます。現在の大師地区については、
行方與次郎
三百六十一貫二十四文
江戸 六郷大師河原共
と、まとめて江戸城の管轄下にあります。
当時の多摩川は、川崎区池田町から渡田へ抜けて東京湾に注いでいたと考えられ、現在の川崎区は、古多摩川が流れていた近世始め頃まで今の東京と地続きであったようです。
天正18年(1590年)後北条氏は豊臣秀吉に降伏して滅び(小田原攻め)、北条氏が治めていた関八州(※8)は徳川家康に与えられ、市域は江戸城を本拠とした家康の支配下になりました。この年、多摩川の大洪水が起こりました。
川崎のなりたち −江戸時代−
上に見てきたように、川崎は天領(幕府の直轄地)となりました。
後北条氏の支配を受けていた頃は、村々は郷(ごう)を単位にまとめられていましたが、徳川の世になると、郷がさらに小さな村々に分けられました。寛永(かんえい)2年(1625年)には今の川崎区には次のような村がありました。
【武蔵国橘樹郡に属した村(川崎領)】
下平間村、塚越村、小倉村、古川村、小向村、取手村、南河原村、堀ノ内村、川崎宿(久根崎村、新宿村、砂子村、小土呂村)、中島村、川中島村、大師河原村、稲荷新田村、大島村、渡田村、小田村、下新田村)
後北条氏の時代には既に大師河原の名がありますが、その他にも幾つかの集落ができており、文化文政年間(1804-30年)(※9)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)には、市域で628の小名(こな=集落の名前)を見ることができます。
(図は『新編武蔵風土記稿』に見られる川崎区の村名とおおよその村域)
二ヶ領用水
家康は江戸に入るとすぐに農業生産力の増大を図るため、役人達にその任を与えました。その中の一人が代官小泉次大夫(こいずみじだゆう)で、稲毛・川崎二ヶ領用水(※10)の工事を進め、慶長16年(1611年)に完成させました。
川崎宿の誕生
慶長5年に長さ百九間の六郷橋が架かり、翌年には東海道の伝馬(てんま)制(※10)がしかれて宿駅が設けられましたが、品川−神奈川宿の距離が長くて両宿の負担が過重になったため、遅れて元和9年(1623年)、三代将軍家光の時代に久根崎(くねさき)、新宿(しんしゅく)、砂子(いさご)、小土呂(ことろ)の四村からなる川崎宿が設けられました。(→コラム『東海道五十三次「川崎宿」(歌川広重 1797-1858)』)
しかし、元々江戸から近い川崎宿では宿泊客もなく、伝馬役は過重で、慶安、元禄の大地震、さらには宝永4年(1707年)の富士山の噴火による降灰被害などで川崎宿は疲弊しました。
【江戸初期の川崎大師】
江戸に諸藩の武家屋敷ができ、人口が増えると共に、信仰と行楽を兼ねた大師参詣は江戸時代初期から大変盛んになりました。そこで、寛文(かんぶん)3年(1663年)に江戸からの参詣者のための道標が立てられました。正面には真名(まな=漢字)で「從是弘法大師江之道」、正面右には仮名で「こうぼう大し江のみち」と書かれています。(この道標は現在は川崎大師境内に移されています)
『東海道五十三次駅名所川崎宿大師河原真景』歌川広重
江戸方面から六郷の渡しで多摩川を渡った場合、上記の道標そばにある「万年」の前で本道から左(東)に折れて医王寺(いおうじ)の前を通り、若宮八幡宮を通って川崎大師に向かいました。医王寺の境内には『しおどけ地蔵』(コラム参照)が祀られています。
【馬頭観音】
川崎大師の表参道には小さな祠(ほこら)に馬頭観音が祀(まつ)られており、江戸初期の作とされています。
馬頭観音は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ>略して観音菩薩とも)の化身で、宝冠に馬頭をいただき忿怒(ふんぬ)の相をしています。馬は悪魔を下す力を象徴し、煩悩を立つ功徳があるとされますが、江戸時代に馬の供養と結びついて民間に信仰されるようになりました。
現在は昭和44年に再建された小堂ですが、天保12年(1841年)の記録では、広さは29坪あったとされています。
縁結びの神
昔、平間寺(川崎大師)へ馬で参拝に来た人達がこの御堂の前で馬を繋ぎ止めていましたが、力の強い馬を手綱(たづな)一本で格子に繋ぎ止めることができたことから、縁結びの御利益(ごりやく)があると伝えられるようになりました。赤い紐をお堂に結びつけると恋愛が成就するそうです。
川崎宿の窮乏を建て直した田中丘隅
田中丘隅(たなかきゅうぐ 1662-1729)は武蔵国多摩郡平沢村(現あきる野市平沢)の名主の家に生まれ、農業と絹物行商を生業としていましたが、行商に出かけた川崎宿で、商売熱心で誠実な人柄を見込まれて、22歳の頃に川崎宿本陣名主である田中家の養子に迎えられ、田中兵庫と名乗りました。代官伊奈半左衛門から川崎宿の立て直しを依頼された27歳の兵庫は、伝馬・人夫の役を半分にすること、また六郷川(多摩川河口近くの別称)の渡船権を川崎宿の請負になるよう願い出て許可を受け、渡船賃の収入を得られるようにし、幕府から宿救済金3500両の支給を受けて、短期間の間に川崎宿を再興しました。
その後『民間省要』全17巻を著して、その中で農民の生活実態、年貢徴収の実情、凶作対策、治水策などを論じています。この功績が認められて将軍吉宗から普請御用役に任ぜられました。兵庫はまた、二ヶ領用水の大改修も行っています。
新田の開発
ここに『新編武蔵風土記稿』の村名と現在の町名との対比表がありますが、池上町や池上新町はかつて池上新田と呼ばれていました。この地名は当時大師河原地区を支配していて池上新田を開発した豪族池上氏から付けられたもので、現在の東京都大田区池上とも関係があります。
池上氏は武蔵国荏原郡池上村(今の東京都大田区池上)に住んでいました。宗家に宗仲という人物がいて、日蓮上人に帰依しており、上人が病気療養のために常陸へ赴く途中,宗中の屋敷で亡くなったため、屋敷を寺としたのが後に本門寺のできる基なりました。
小泉次大夫が治水を行った当時、池上家二十代池上幸種が工事に協力しましたが、完成を見ずに亡くなり、息子の幸廣が引き継いで、開拓に本腰を入れるために、1642年(寛永19年)に池上の地を本門寺に寄進して大師河原に居を移しました。 →参考:『大師河原酒合戦』
池上幸廣、その子の幸定(ゆきさだ)により新田の開発が進められ、孫の池上幸豊(ゆきとよ/1718〜1798)に引き継がれました。当時は、享保の改革が行われ、幕藩体制の立て直しが行われる側面で農民は重い年貢に苦しんでいました。
幸豊は100町歩(ちょうぶ/1町歩=約0.9917ヘクタール)の新田を開く計画を幕府に申し出て、その7年後の1752年(宝暦2年)に、計画を大幅に縮小されてようやく許可がおりました。更に7年かけて出来上がった埋め立て地は池上氏の名を冠して池上新田と名付けられ、一つの村となりました。
池上新田の他、江戸中期から幕末にかけて、渡田新田、大島新田、田辺新田など新田村が多く発生します。さらに明治中頃までに和泉新田、若尾新田、青木新田などの新田が造成されました。
殖産興業(しょくさんこうぎょう)
幸豊はまた、米作り以外の産業を興(おこ)し、農民に新たな収入の道を開きました。
サトウキビの栽培による砂糖(黒砂糖、白砂糖)の生産や塩作りなどです。また、1760年に海に海苔(のり)を発見すると、自ら養殖の研究をし、海苔の養殖を広めました。
徳川11代将軍家斉の厄除け祈願
徳川家斉〔安永2年(1787年)10月5日 - 天保12年(1837年)閏1月30日〕は、既に寛政9年(1797年)の25歳の本厄の前年である前厄と翌年の後厄に将軍自ら大師に詣で、厄除けの祈願をしていますが、公には伏せられており、食事や休憩を行ったのは多摩川の船上でした。寺で食事を取っていただく、即ち『御膳所』(ごぜんしょ)となることは、その準備は大変なことながら、寺にとっては長年の悲願でした。それが成就したのは文化10年(1813年)の前厄の時で、翌年の42歳の本厄は代参が行われましたが、後厄の年には再び大師を参詣(さんけい)しました。
【明長寺の小袖】
天台宗明長寺は、創建は文明年間(1469-1487)と伝えられていますが、寛文9年(1669)の落雷により堂宇(どうう)が消失した後、天明2年(1782)に現在の本堂が再建されました。
文化10年の徳川家斉による大師参詣の当日、当時の隆圓山主(さんしゅ=住職)が急逝するという一大事がありました。これを救ったのがすぐ近くの明長寺で、山主のなきがらを預かり、無事、将軍を迎えることができました。
次の文化12年の将軍参詣では、台覧に供する(=高貴な人に見せること)品として、明長寺所有の由緒ある小袖(こそで)(※12)を貸し出しました。これは、大坂の陣(1615年)で松平忠直(ただなお)に従って功績を挙げた荻田主馬長繁(おぎたしゅめながしげ)という武将が家康から拝領した肌着で、その子孫が明長寺に預けたものです。
川崎のなりたち −明治時代−
神奈川県の成立
新政府は明治元年(1868)に武蔵国内の旧幕府領を管轄するために武蔵知県事(むさしちけんじ)を派遣しましたが、明治2年(1869)の版籍奉還(※13)、明治4年(1871)の廃藩置県を経て、ほぼ現在の神奈川県の形になりました。明治5年に現東京の北多摩、西多摩、南多摩が神奈川県に加えられ(明治26年に東京府に移される。)、明治9年に足柄県が神奈川県とひとつになりました。
鉄道の開通と六郷橋の完成
明治5年(1872)5月7日、横浜(現在の桜木町)−品川間を日本最初の鉄道が開通しました。横浜−新橋間が開通するのは4ヶ月後の9月のことです。6月には川崎停車場が川崎宿とはやや離れたところ、現在の京急川崎駅近くに完成しました。
鉄道の開通は川崎宿の旅籠屋(はたごや)には大きな打撃を与えました。今まで東京から横浜までは2日がかりだったのが、たった52分で行けてしまうからです。しかし、陸蒸気(おかじょうき=汽車)で来る川崎大師の参詣客に目をつけた小川松五郎という人が、駅から宿までの道を広く整備して人力車を置き、参詣客相手の商売を始めると、しだいに休み茶屋や土産物屋が増え始めました。
政府は全国の大きな川に橋を架けることを奨励しました。しかし、渡し舟にかわる橋を架けることに、当初は川崎宿の人々は反対でした。江戸時代から渡し舟の運賃は川崎宿のものとなっていたからです。明治7年、川向こうの八幡塚村の鈴木左内が中心となり橋が掛けられ、「左内橋」と呼ばれていましたが、明治11年の大水で流されてしまいました。宿の人々も橋の便利さに気づき、川崎宿で橋を架けることを政府に願い出ました。八幡塚村も申請し、争いが起こりましたが、最終的に共同で「六郷橋」をかけました。明治16年のことです。
長十郎梨の栽培
明治期、橘樹郡の村々では多くの住民が農業で生計を立てていました。現在の川崎区にあたる地域では米も多く作られていましたが、砂地のため米の生育が悪かったので、砂地に適する梨や桃を作ったり、大師河原村では海苔の養殖も盛んでした。
1893年(明治26年)頃、大師河原(現日ノ出)の当麻辰次郎(とうまたつじろう/1826−1905)が病害虫に強く、甘みがあって収穫高の多い梨を発見しました。この梨は当麻辰次郎の屋号を取って長十郎と名付けられ、たちまち川崎一帯に広がり、全国の梨の60%も占めるほど人気になりました。
画像は、川崎大師
境内に建つ記念碑「種梨遺功碑」で、大正8年(1919)に辰次郎の功績を讃え建立されたものです。
明治中期の俳人正岡子規は川崎の梨を詠んだ句をいくつか残しています。
行く秋の 梨ならべたる 在
所かな
川崎や 畑は梨の 帰り花
梨くうは 大師戻りの 人ならじ
川崎や 小店々々 梨の山
川崎を 汽車で通るや 梨の花
徒歩で行く 大師詣でや 梨の花
大師電気鉄道の開通
明治の中頃、川崎大師の参詣客を目当てに川崎駅−大師間に大師電気鉄道(現在の京浜急行大師線)が計画されました。しかし、小川松五郎を中心とする人力車夫の団体「だるま組」はこれに反対しました。車夫だけでなく、川崎町の土産物屋なども客を直接鉄道で運ばれてしまっては商売にならないと反対しました。そのため、大師電気鉄道は当初予定していた川崎駅からではなく、六郷橋から大師までとして、ようやく反対運動も収まり、明治32年(1899)1月20日大師電気鉄道が開通しました。六郷橋−大師間を10分で結び、上等10銭、並(なみ)等5銭で乗車することができるようになりました。米1kgが10銭の時代です。
工場の進出
大師電気鉄道に電気を供給する火力発電所が川崎町久根崎(くねざき)にできると、この電力と多摩川の水、交通の便の良さに目をつけた横浜製糖(明治製糖=明治製菓の前身)が明治39年(1906)南河原に工場を建てました。さらに明治41年(1908)には東京電気会社(現東芝)が堀川工場を、明治42年(1909)に川崎町久根崎に日本蓄音機製造工場(現パイオニア)を建て、川崎の工業化が始まりました。
川崎のなりたち −大正時代−
重工業の発達
この項書きかけ