このページは、創立百周年を記念して発行された『大師』を参考に、大師小学校の沿革を、当時の学校制度について加筆し、まとめたものです。(間違い等を見つけたら加筆修正するつもりです。)

明治初期 〜私塾から下等小学校へ〜

明治5年(1872年)8月、学制の公布により、それ以前の寺子屋・私塾・郷学校などの庶民教育機関や藩校等の武家の教育機関を母体として各地に小学校が成立しました。

大師小学校の前身は漢学者岩槻元明(いわつきげんめい)の起こした私塾で、二ヶ領用水(にかりょうようすい)の支流近く(現在の四谷上町)にあったことから、『水堀学校』と呼ばれていました。

水堀学校には、後に田中義一内閣で内務大臣として入閣した鈴木喜三郎氏も学んでいます。

同時期に、稲荷新田(現在の殿町)に清澄学舎(せいちょうがくしゃ)、遠藤野(現在の観音町)に臨海学舎(かんかいがくしゃ)も開かれています。

ここで、明治期の初等教育の歩みを見てみると、

年 表
1872年8月3日 (明治5年)学制公布(日本にて最初に学校制度を定めた教育法令)
1872年9月29日 (明治12年)教育令公布
1886年 (明治19年)小学校令公布(義務教育の意義が明確にされ,父母は6〜14才の学齢児童に普通教育を受けさせる義務を持つものと定めた。)

となっています。この当時の小学校の数や生徒数の推移は以下のようになっており、別の資料では、明治6年の就学率は28.1%(男子39.9%、女子15.1%)で、明治12年に41.2%(男子58.2%、女子22.6%)と、就学者が年とともに増加しました。

学制

明治14年(1881年)から1912年(大正元年)の間は、大師小学校は現在の東門前1丁目(現在のナゴヤ薬局−駅前酒造の辺り)にあり、『シャボテン学校』の名前で親しまれていました。

就学率が高まり、校舎を次々と増築していた様子が、サボテンが若芽を吹くのに似ていたためにそのように呼ばれていたそうです。

(以上は、文部科学省の『第一編 近代教育制度の創始と拡充』を参考に記述。)

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明治45年 〜現在の位置に移転〜

尋常高等大師河原小学校之図明治後期、更に児童数も増え、手狭になったので、現在の大師小学校の位置に移転が決定されました。用地は村で購入しましたが、田として利用されていたので土地が低く、校舎と運動場を建設するために盛り土が必要で、敷地の1/3を掘っったため、明治45年(1912年)の創建時には校庭に大きな池がありました。

この当時、校名は大師河原小学校から尋常高等大師河原小学校と変わっています。

これ以前(明治19年/1886年)に公布された小学校令で、当時は尋常小学校(義務教育)と高等小学校が設置されることになり、明治23年(1890年)の小学校令改正により、尋常小学校の就業期間が4年に統一されていました。これが、明治40年(1907 年)の改正で6年間に延長され、一方、高等小学校は当初4年間の課程でしたが、この時に2年間に変更されています。なお、尋常小学校と高等小学校は、昭和 16年(1941年)の国民学校令により、国民学校が設置されることで消滅します。

工事は明治45年3月に終了し、4月から授業が再開されました。この時に殿町と遠藤野の小学校を合併し、6月6日に記念式典が行われたことで、この日が創立記念日となりました。

また、同年に、昼間学校に通えない生徒のために夜間学校も開設され、チョウチン学校と呼ばれました。

7月30日に明治天皇が崩御し、元号が大正に改まります。

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大正期 〜関東大震災〜

付近の人口も増え、明治42年頃には500名ほどの児童数が、大正2年頃には1000名近くと増えたため東側校舎が新たに建築されました。

大正4年の卒業写真左の写真は、当時の小学生の様子を表しています。
ノートや鉛筆も、この当時から使われるようになりました。

大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、関東大震災が起こりました。

その日は始業式が行われ、児童が帰った後なので、児童への被害はありませんでしたが、トイレと講堂以外の校舎が全て崩壊しました。(下図)

震災で壊れた校舎当時は木材が不足していたので、若宮神社の杉の木を切って講堂を支え、しばらくの間は講堂を教室代わりに使用したり、蜜柑箱を机代わりにして、公園や神社の境内で授業を行いました。

約3ヶ月後の12月には、本校(大師小学校)や殿町と観音町の分教場に仮校舎が建てられ、翌年に全校舎が建て直されました。

また、大正14年(1925年)12月には、新たに8教室が新築されました。

下は講堂の写真です。

講堂

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昭和期 〜国民学校の時代〜

前述の通り、昭和16年(1941年)の国民学校令後、終戦直後までは、川崎市大師国民学校と呼ばれます。これ以前(昭和9年)には、遠藤野分教場が川中島小学校として独立しています。

この間、二階建て校舎や裁縫教室が建てられ、設備の充実した学校として有名でした。

昭和16年(1941年)12月8日に太平洋戦争が勃発し、昭和19年頃には大師での授業が困難となって、学童疎開が始まります。児童が戻ってくるのは、昭和21年8月の敗戦後、9月から10月にかけてでした。

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戦後の大師小学校

新たに憲法が発布され、学校制度も六・三制となり、昭和22年(1947年)4月1日には、川崎市立大師小学校と名称が変わりました。

昭和22年の航空写真ここに昭和22年当時の航空写真がありますが、周囲には畑が多く広がっています。

昭和24年には殿町小学校が誕生し、26年には四谷小学校、32年には東門前小学校が誕生しました。

ブロック校舎昭和29年(1954年)10月に、川崎市の学校では初めての試みとして、ブロック建て校舎が建築されました。

11月には講堂を東側に移築し、一部改築をしました。

1962年頃の学校その後も、34年に鉄筋校舎が建てられ、左の写真のような、我々にもなじみ深い姿になりました。

昭和38年の航空写真左の画像は昭和38年当時の航空写真です。
講堂がの隣(上)に1年4組があった木造校舎も映っています。

昭和47年 特別教室の増築そして、昭和43年(1971年)2月には講堂と平屋建ての木造校舎を取り壊した跡に体育館が完成し、昭和47年(1972年)3月に、鉄筋校舎に特別教室が増築され、我々は5、6年次にこの校舎で学びました。

プールが完成したのは、昭和45年(1970年)の時です。

なお、同年8月にはトイレが水洗式になり、教室には空気清浄機が設置され、11月には石炭ストーブ(達磨ストーブ)から石油ストーブに変わりました。

昭和38年の航空写真百周年記念誌『大師』に「今の学校」として、我々が卒業した当時の校舎の見取り図が掲載されているので、最後に転載します。

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鈴木喜三郎(すずききさぶろう)

慶応3年10月11日(1867年11月6日)- 昭和15年(1940年)6月24日
後の神奈川県川崎市の川島家に生まれる。大師本町天台宗明長寺の12世鈴木慈孝師の養子となる。明治15年(1882年)7月 東京外国語学校仏語学科入学。 日本の司法官僚、政治家。立憲政友会第7代総裁。

明治6年の下等小学教則

下等小学教則

明治11年の卒業証書

卒業証書

当時の小学校は、上下二等の小学を各八級に分けて、下等八級から上等一級に至る毎級の授業期間を六か月とし、毎週日曜日を除いて一日 5時間、週30時間を課程としていました。

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